2007年12月12日水曜日

Pablo Neruda

「ネルーダのアルバム」と題された、チリのノーベル賞詩人パブロ・ネルーダ(一九〇四-一九七三年)のビジュアルな伝記がこのほどスペインで刊行された。約四百枚の写真が掲載され、ネルーダの波乱に富んだ生涯を写真と文章で追うことができる。

興味を引く断章のひとつは、一九二〇年代の終わりから一九三〇年代のはじめにかけてのもので、ネルーダ自身が、この時期のことを「ほんとうの孤独とはどういうものか初めてわかった」と述懐している。当時のネルーダは二十代の後半で、外交官として東南アジアのラングーン(現在のヤンゴン、ビルマ)、コロンボ(スリランカ)、バタビア(現在のジャカルタ、インドネシア)、カルカッタ(インド)などを転々とした。一九二八年の二月には中国や日本を訪れ、厳しい寒さに遭遇した様子を友人宛の手紙につづっている。

ヨーロッパからも遠く離れた異国での孤独な日々は、執筆中だった「地上のすみか」(一九三三年)の内省的な声調に反映されている。この時期に、何人かの女性と出会い、彼女たちに救いを求めるように恋愛し、そのつど不首尾に終わっている。そうした昂揚感と哀しい結末の体験も「地上のすみか」の作品として結実し、ネルーダの最初の詩集「二〇の愛の詩と一つの絶望の歌」とともに、多くの読者の心を今なお捉えつづけている。

今回の「アルバム」に収録された四百枚の写真を追っていくと、ネルーダのその後の変貌も手にとるようにわかる。孤独だった彼のまわりには、やがてにぎやかな声が飛び交い、多くの作家や芸術家、政治家や革命家や女優たちが集まり、ネルーダはさながら鳥たちが群れ集う緑豊かな大樹となっていく。

「大いなる歌」(一九五〇年)を経て「基本的なオード」(一九五四-一九五九年)のころになると、詩人は、玉ねぎだろうとレモンだろうと木片だろうと、目に映るものすべてを詩に歌うことができた。触ったものをすべて黄金に変えたギリシア神話のミダス王になぞらえて、ネルーダが詩のミダス王と呼ばれるようになってすでに久しい。

2007年10月8日月曜日

Frida y Diego

■今年はメキシコの画家フリーダ・カーロ(一九〇七~一九五四)の生誕百年。またその夫君であった壁画家ディエゴ・リベラの没後五十年にもあたる。というわけで、ふたりにちなんださまざまなイベントや展覧会が世界各地で盛大に開催されている。

リベラは亡くなる前に、ふたりが暮らした通称「青い家」の一室に多くの箱を封印し、自分の死後十五年間は開けないようにと友人に託した。友人は十五年どころか五十年近くその遺言を守った。そして三年前についに封印が解かれ、このほどそれらの箱の中身が明らかにされたのだ。

出てきたおびただしい品々のうちで最も多かったのは書類や手紙類だった。写真も五千枚以上見つかり、なかにはフリーダが自ら撮影したものもあった。写真家だった父親の影響や、それらの写真とフリーダの絵画との関係はすでにいろいろ取り沙汰されはじめた。

バス事故の後遺症で幾度も手術をよぎなくされたフリーダだが、背骨を支えるための石膏製のコルセットや、きゃしゃな体を包んだ民族衣裳も多数出てきたので、博物館となった「青い家」の展示コレクションは、今後いちだんと充実することになるだろう。

とはいえ、そうした品々でとりわけ興味を引くのは、やはりベッドに横たわったまま晩年にフリーダが走り書きしたさまざまな文章だ。トロツキーやイサム・ノグチなど、恋人たちに宛てた手紙を含め、フリーダの約三百点の手紙を1冊の本に編んだ研究家ラケル・ティボルによれば、フリーダはときには、同じ家の中にいるリベラにも「手紙」を書き送っていたのだそうだ。

ティボルは若い時分に「青の家」で過ごし、フリーダとリベラの暮らしぶりをわが目で見ている。新しく出てきたそれらの手紙やメモ類が、ティボルによって編まれた「フリーダ・カーロのエクリチュール」の新しい版に加えられる日もそう遠くあるまい。
「北海道新聞」2007-9-25

2007年7月16日月曜日

Mario Vargas Llosa

■五,六年前だったか、ペルーの作家バルガス=リョサは「戯曲をまた書きたいと思いませんか」という問いに、「初恋の相手はお芝居だった。今も題材が頭のなかにいっぱいある」と答えていた。

このほどそのうちのひとつが結実し、バルセロナの出版社から刊行された。ホメロスの『オデュッセイア』を翻案した『オデュッセウスとペネロペ』だ。表紙には白いあごひげをたくわえたリョサとペネロペを演じたスペインの女優アイタナ・サンチェスが見つめあっている。

じつは昨年の夏、メリダ(スペイン南西部の都市)にあるローマ時代の劇場でこの戯曲が上演されたのである。脚本を手がけただけでなくリョサは自ら英雄オデュッセウス(英語ではユリシーズ)を演じてみせたのだ。

トロイ戦争へ出かけ、各地を放浪の末に故郷に帰ってきたオデュッセウスが、苦難の歳月を貞淑な妻ペネロペに語ってきかせる。それがリョサの役どころ。その傍らでアイタナ・サンチェスは、ペネロペや旅の途中でオデュッセウスが遭遇する一つ眼の巨人キクロペス、あるいは魔女キルケや甘美な歌声のセイレンにつぎつぎと変身していくのである。

そうした仕掛けは、リョサの八〇年代の戯曲『タクナのお嬢さん』(1981)や『キャシーと河馬』(1983) にどこか相通じるものがある。ただし舞台の上で演じられるのは、作家が物語を書くことの不思議ではなく、物語を読むことの、あるいは語ることの不思議と喜びである。

ステージから降りてきたリョサは舞台俳優としての自己採点を聞かれて、「下手だったといえば謙遜にすぎるし、冴えていたといえばうぬぼれになるな」と答え、出来映えにはまんざらでもなさそうだった。

今年七一歳になったリョサだが、たいへんに若々しい。美貌のアイタナ・サンチェスとの共演はこれからも続く。次回作『千一夜物語』の完成も間近いという。こんどの役柄は、シェヘラザード姫に物語を語らせるあの非情なペルシアの王様だ。
「北海道新聞」2007-7-10

2007年5月27日日曜日

Haruki Murakami

■このところスペイン語圏で村上春樹の作品があいついで翻訳され、ちょっとしたブームになっている。『ねじまき鳥クロニクル』『スプートニクの恋人』のあと、『ノルウェイの森』で火がつき、『国境の南、太陽の西』『海辺のカフカ』と続いている。代表作の『ねじまき鳥クロニクル』がいち早く翻訳され、日本での発表順とは必ずしも一致しないが、熱烈な愛読者がスペインやアルゼンチンでも誕生し、とにかくつぎの作品を読みたいというような状況になっている。日本では、小説だけでなく、エッセイや、愛読者と交わした厖大なメールのやりとりをまとめた本さえあることを彼らが知れば、日本語を解するわれわれをさぞうらやましく思うにちがいない。

七百ページ近い分厚い一冊の本になった『ねじまき鳥クロニクル』や、ほどよい厚みの『スプートニクの恋人』を読んでみたが、なかなかみごとな訳である。いずれもルルデス・ポルタとジュンイチ・マツウラの共訳で、村上春樹の文章の都会的な軽やかさと叙情性が申し分なくスペイン語に置き換えられている。――「それは彼女にライカ犬を思い出させた。宇宙の闇を音もなく横切っている人工衛星。小さな窓からのぞいている犬の一対の艶やかな黒い瞳。その無辺の宇宙的孤独の中に、犬はいったいなにを見ていたのだろう?」(『スプートニクの恋人』)これはスペイン語で読んでも完璧である。

ところで近年、頭角を現してきたラテンアメリカの一群の新しい作家たちがいる。たとえばペルーのアロンソ・クエトやボリビアのパス・ソルダンなどだ。じつは彼らも村上春樹の信奉者である。アメリカのコーネル大学の教壇に立つパス・ソルダンなどは、「『スプートニクの恋人』や『ノルウェイの森』を読んで、この日本人が確かにたぐい希な作家であることがわかった。ポストモダンなテクストを書きながらも人を感動させることができる。(中略)そして不可視な現実と実在する非現実の境目に食い込むのだ」とコラムで述べている。

ガルシア=マルケスにしてもボルヘスにしても、この世のマジカルな層を描きだして、多くの傑作を生んできた。そうした巨匠たちを乗りこえる手だてを見つけることがラテンアメリカの新しい作家たちの課題となっている。そうしたなかで、東洋の作家がそれを軽やかでしなやかな言葉でやってのけていることに驚嘆しているようだ。
「朝日新聞」2007-4-21

2007年5月20日日曜日

Sergio Pitol

■メキシコの作家セルヒオ・ピトルは、スペイン語圏の最も重要な文学賞であるセルバンテス賞を受賞した。下馬評ではペルーのブライス・エチェニケやウルグアイのマリオ・ベネデッティらの名前もあがっていたが、けっきょく72歳のピトルに決まった。授賞式はスペイン国王臨席のもとにセルバンテスの命日に当たる4月23日におこなわれる。

ピトルは長年、外交官として活躍するかたわら小説や評論を書いてきた。北京、ワルシャワ、モスクワなどに赴任し、大使としてチェコのプラハでも数年暮らしたことがある。作品ではそうした異国でのエピソードや、幼くして両親を失い、祖母の家に引きこもって暮らした日々のことが想起される。

「私の作品では、思い出や評論や小説など、いろんなジャンルが混ざり合うんです」とあるインタビューで述べている。「自分の書く評論はいささか退屈で、暗くなりがちなので、あるときふと、小さな物語を折り込んだり、夢の切れ端を忍ばせたり、身近な人物を登場させたりしてみたんだ」

このスタイルが功を奏し、受賞の理由にそうした「多様なジャンルの巧みな融合」を果たしたことがあげられている。ポストモダンの系譜に連なるような斬新で「開かれた」作品を書いたというわけである。
さらに、赴任した先々の作家たち、たとえばゴンブローヴィッチ、アンジェイェフスキといった東欧の作家たちをつぎつぎにスペイン語圏に翻訳紹介したその功績が称えられた。チェーホフ、コンラッドの作品まで入れると、百冊近い作品の翻訳がある。

外交官として仕事ぶりはどうだったのかと気になるところだが、彼の人気と評価の高まりはいずれにせよ、退官後の『フーガの芸術』(1996)からだろう。小説とも評論とも随筆ともつかぬそのシームレスなスタイルは、意外にも日本のわれわれには親しみやすい。そういえば、仏教的なものが自分にしっくりくるともピトルは述べていた。
「朝日新聞」2006-2-14

2007年5月13日日曜日

Octavio Paz

■ペルーのカトリカ大学の出版局から芭蕉の『奥の細道』のスペイン語訳が送られてきた。

いつものように茶封筒に、麻ひもでくくっただけの簡素な梱包だ。長旅でぼろぼろになった封筒から、大層な本が出てきたりするので、いつも驚かされる。

『奥の細道』は、五十年ほど前に、メキシコの詩人オクタビオ・パスと林屋栄吉氏によって翻訳された。これまでスペイン語に訳された日本文学のなかで最も幸運な作品だろう。パスはのちにノーベル文学賞を受賞することになるが、当時は四十歳代の前半で、まだ世界的には知られていなかった。

スペイン語版『奥の細道』はこの半世紀のあいだに、メキシコやスペインなどいくつか国でも刊行され、そのたびに内容が一段と充実してきた。一九七〇年代のラテンアメリカ文学のブームの時代には、スペインの有力なセイクス・バラル社から刊行され、「松尾芭蕉の詩」のほかに、新しく「俳句の伝統」と題された長文の評論が冒頭に付され、訳書とはいえ、パスの代表作のひとつとして、スペイン語圏の各国で広く愛読されるようになった。

今度のペルー版でも、この充実の路線が継承されたようだ。一九九〇年代に日本で刊行された豪華本にならって、与謝蕪村が写した『奥の細道』とパスが翻訳したテキストが左右のページに相対し、さらに蕪村の手になる色刷りの俳画が随所に折り込まれているのである。

かつてさまざまな国の詩人たちと、西洋で初めて連歌の制作に挑んだパスである。ペルー版『奥の細道』では、期せずして、十七世紀の芭蕉や十八世紀の蕪村と時空を超えたコラボレーションをなしとげたといえるかもしれない。魅力を増したこの訳書は、さらに多くの読者を得ていくにちがいない。
「北海道新聞」2003-10-21

2007年4月30日月曜日

García Márquez

■コロンビアのノーベル賞作家ガルシア=マルケスの代表作『百年の孤独』の新たな版がこのほどスペインの出版社から刊行された。記念特別版なるもので、今年は、マルケスが八〇歳を迎え、『百年の孤独』が世に出てからちょうど四十年という節目の年にあたる。

スペイン王立アカデミーを中心に各国のスペイン語アカデミーが共同で編集を担当し、マルケス自身も校正刷りに目を通し、思い違いを指摘されていたいくつかの箇所に手を入れた。またペルーのバルガス=リョサやメキシコのカルロス・フエンテスといった著名な作家たちの評論やエッセイも収められ、五十五ページにおよぶ詳細な用語集も付された。

これが店頭に並ぶと発売後五日間でたちまち十五万部売れたそうだ。最初の一冊は、三月の末にコロンビアで開催された第四回スペイン語国際会議の席上でマルケスに手渡されたが、このセレモニーのためにマルケスは居住するメキシコから帰国し、スペインの国王夫妻やコロンビア大統領も参列した。

その折りのマルケスのスピーチは断片的にさまざまなメディアで紹介されたが、たまたま私が見たスペインのテレビニュースでは、白いスーツ姿のマルケスは『百年の孤独』をめぐるユーモラスなエピソードを語って会場を湧かせていた。

わりによく知られたエピソードだが、『百年の孤独』をメキシコでようやく書きあげたとき、メルセデス夫人が質屋などで工面してくるお金もとうとう底をつき、原稿の束をアルゼンチンの出版社へ送る郵便代にも事欠いたという話。郵便局で小包を計量したところ、「八十二ペソ」と言われたが、手持ちは五十三ペソしかなかった。思案の末、「原稿をふたつに分け、とりあえず、半分だけブエノスアイレスへ送った」。しかし送ったのは後半の部分だったことにあとになって気がついた…。

その『百年の孤独』はこれまで約四十ヵ国語に翻訳され、四千万部以上売られている。今回のスペイン王立アカデミー版も、三年だけの限定販売だが、百万部を越える日もそう遠くないだろう。
「北海道新聞」2007-4-24

2007年4月6日金曜日

Juana Inés de la Cruz

■近年メキシコの尼僧フアナ・イネス・デラクルスの著作が目につく。なかでも恋愛詩を収録した小ぶりな詩集が人気があるのか、何種類か出まわっている。スペイン語圏だけでなく欧米でも読まれており、このほどスペイン語・英語対訳の『尼僧フアナの愛の詩集』が送られてきた。百ページ足らずの本だが、フアナ・イネスのソネット(十一音節の十四行詩)がゆったりと組まれ、各ページに愛らしいキューピッドの木版画があしらわれている。

年々再評価の高まる尼僧フアナだが、じつは彼女が亡くなってから三世紀になる。メキシコがまだスペインの植民地であった十七世紀後半に、読書と学問に専念できる環境をもとめて、副王の華やかな宮廷で女官として仕えたあと、男尊女卑の結婚を嫌って、十代の終わりに修道女になる道を選んだ才色兼備の女性である。修道女になったあとも、副王夫人の庇護を受け、その求めに応じて作品をつづり、宮廷のサロンで披露した。

それらの作品が織りなすバロック的な愛の比喩の背後にあるのは、宗教的な情熱なのか、宮廷時代の失恋の痛手なのか、はたまた単なる豊かな読書体験なのか、これまでさまざまな説が語られ、興味が尽きない。

いずれにせよ、スペインにまで文名をとどろかせたフアナだが、世俗的な文芸に憂き身をやつしているとして教会から厳しく糾弾されてしまう。それでも反論を試み、司教に宛てた文章のなかで、女性の教育を受ける権利や、その文化的な役割について先駆的な論陣を張るが、ますます四面楚歌に陥り、筆を折らざるを得なくなった。

 『尼僧フアナ・イネス・デラクルスあるいは信仰の罠』と題された分厚い評論のなかでメキシコのノーベル賞詩人パスが皮肉る――黄金世紀の巨匠たちも神父だった。だが彼らが恋愛詩を書いても、教会の誰も文句をいわなかったではないか。
「北海道新聞」2004-6-22

2007年3月25日日曜日

Isabel Allende

■ラテンアメリカの女性作家のなかで圧倒的な人気をほこるチリ出身のイサベル・アジェンデ。その新作『わが魂のイネス』がこのほど(2006年)ラテンアメリカやスペインの出版社からあいついで刊行された。十六世紀にスペインの征服者たちが勇んで新大陸の各地に乗り込んでいった時代に、彼らにまじって活躍した女性イネス・スアレスの話である。これまで歴史の表舞台でとりあげられることなく、ほとんど忘れられてきた存在であるが、アジェンデにいわせると、それは「歴史がたいがい男たちの手で、それも勝者側の白人たちの手で、書かれてきたから」である。イネス・デ・スアレスはスペインから新世界に渡り、屈強な征服者たちと行動を共にし、今のチリで先住民のマプーチェ族と戦い、サンチアゴのまちを建設した。

ところで、アステカ王国を滅ぼした征服者がコルテスであるように、あるいはインカ王国を滅亡させたのがピサロであるように、勇敢なマプーチェ族をねじ伏せ、現在のチリに当たる地域を征服したのはペドロ・デ・バルディビアという猛者である。『わが魂のイネス』はじつは、イネス・スアレスとこのペドロ・デ・バルディビアとの数奇な恋物語でもある。チリ征服の偉業は、ふたりの魂の強力な結び付きによってなしとげられたというのがアジェンデの見方である。イネスの知恵と才覚によりバルディビアは何度も窮地を救われ、ときには彼女自身が短刀を握って兵士たちの先頭に立ち、首長の首をかき切ったこともある。それらのエピソードは史実に基づいており、アジェンデは当時の資料を読みあさったのだという。

イサベル・アジェンデは日本でも『精霊たちの家』『エバ・ルナ』『パウラ』などの作品で知られる。米国カリフォルニアに生活の場を移してからもう二十年近くになる。朝起きると、まずしっかり嵩のあるヒールの靴をはくのだそうだ。「ちょっとおチビさんだものね」。新しい作品はかならず一月八日から書き始める。今回も物語がすらすら口をついて出たという。「わたしの名はイネス・スアレス。チリ王国サンチアゴの住人……」アジェンデには現代のシェヘラザードとの異名がある。
「北海道新聞」2006-11-14

2007年3月18日日曜日

Mario Vargas Llosa

■ペルーの作家マリオ・バルガス=リョサの新しい長編『すぐむこうの楽園』が、このほど(2003年3月)スペインのアルファグアラ社から刊行された。またも五百ページ近くの大作である。後期印象派の画家ポール・ゴーギャンと、その祖母フローラ・トリスタンが主人公だ。ゴーギャンが、南太平洋マルケサス諸島のヒヴァ=オア島で亡くなったのは一九〇三年だから、今年でちょうど百年になる。

リョサが昨年、タヒチへ取材に出かけたことは、ペルーの雑誌の記事で知っていたが、どうやらその折りに、娘のモルガナ・バルガス=リョサが同伴していたようで、彼女の手になる写真集『楽園の写真』も、父親の小説と同時に出版された。

日本では画家ゴーギャンはあまりにも有名だが、祖母のフローラ・トリスタンのことはあまり知られていない。彼女はフランス生まれだが、父親はペルー人で、十九世紀の前半に、父親の故郷を訪れたさいの見聞をまとめた著作もある。その縁で、ペルーの文学史にも登場する。とはいえ、フローラ・トリスタンは、いまでは、むしろ労働者の団結や、女性の地位向上をいち早く訴え、その実現のために先駆的な働きをした女性として、世界的に評価されているのである。

バルガス=リョサの『すぐ向こうの楽園』では、このフローラと孫のゴーギャンの波乱にみちた生涯が二十二章にわたって交互に語られる。フローラは熱情にかられたように「理想」を追い求め、孫のゴーギャンもまた、この地上に「楽園」を求めてタヒチへおもむく。素朴な人びとや手つかずの自然、横溢する生命力をそこに見いだすわけだが、最後の章でリョサは、ほとんど目の見えなくなった悲惨な姿のゴーギャンに、ここは楽園などではなかった、自分は日本に行くべきだったといわせるのである。

表題の『すぐむこうの楽園』は、手が届きそうで永遠に手が届かないユートピアの本質を暗示している。
「北海道新聞」2003-7-29

2007年3月7日水曜日

Julio Cortázar

■日本でも評価の高いアルゼンチンの作家フリオ・コルタサル。短編に定評があり、主要なものは、あらかた日本語で読むことができる。たとえば『悪魔の涎・追い求める男』(岩波文庫)や『すべての火は火』(水声社)。とはいえ、コルタサルは小説のほかに、かなりの数の詩も書いた。それらがこのほど一冊の本にまとめられた。「詩と詩論」と題されたコルタサル全集の第四巻である。スペインの出版社から刊行され、千四百ページを超える分厚い本となった。

マドリードでの出版報告会では、コルタサルの最初の妻で、その最期を看取ったアウロラ・ベルナルデスは、「コルタサルは短編の書き手としてあまりにも有名になったので、十二歳の時から詩を書いていたことを多くの人びとは忘れてしまった」と語っていた。そんな事情もあってか、さまざまな雑誌に散逸していた作品や未発表の作品なども地道に探しだされ、この堂々たる第四巻が編まれたのである。

ほかの者たちが引きあげ/空になったグラスや汚れた灰皿がのこり/君とふたりだけになる/静かな淵のように君がそこにいることが/なんと素敵なことだったか/夜の端に君がいて/そしてなおもそこにいて、時を凌駕する/……」

「パーティーのあとで」と題された作品の一部である。しなやかなリズムやノスタルジックな気分は、パリを舞台に南米の不思議な娼婦ラ・マーガとの日々を描いたコルタサルの名高い長編小説『石蹴り遊び』(集英社)をほうふつとさせる。

コルタサルは一九五〇年代のはじめに、ブエノスアイレスからパリに移り住み、後半生をこの街で暮らした。その折々に密やかで、ナイーブといってよい声で小さな作品をつづった。それはアルゼンチンのさまざまな都市を転々としていた時代からの習わしだった。だからある意味では先のアウロラ・ベルナルデスがいうように、「コルタサルの最良の伝記は、彼の詩の中にある」ともいえるのである。
「北海道新聞」2005.12.27

2007年3月4日日曜日

Manuel Puig

■アルゼンチンの作家マヌエル・プイグが来日したのは一九九〇年で、その年に突如として亡くなったのだから、もうかれこれ十五年以上が過ぎたことになる。来日した折りには長編小説『蜘蛛女のキス』や『赤い唇』などですでに世界的な作家になっていたが、死後もその評価は高まるばかりである。とりわけ母国アルゼンチンでの再評価がいちじるしい。かつては、その斬新さが通俗的だと見下され、ホモセクシュアルだったこともたたって、冷遇された時期が長くつづいたからだ。いまでは、ボルヘスの呪縛からアルゼンチン文学を解き放ったとさえ讃えられる。そしてその延長線上にこのほど、ブエノスアイレスの出版社から書簡集二巻本が刊行されたのである。

『親愛なる家族へ』と題されたこの書簡集には、文字通り家族(父親、母親そして弟)に宛てた四百通を越える手紙が収録されている。先に出た第一巻では、一九五六年から一九六二年までの百七十二通が収められ、「ヨーロッパからの手紙」という副題がつけられている。映画監督をめざしてローマの映画実験センターへ旅立った二十代後半の若きプイグの日々がそこにある。そして第二巻の「アメリカ大陸からの手紙――ニューヨーク、リオ」では、晩年近くまでの、その後の二十年間の二百三十五通が収録されている。こちらの二十年のあいだに、プイグは映画から脚本へ、そして小説というジャンルに行き着き、会話やモノローグを主体にした独特な作風を見出すことになるである。

「アルゼンチン人の嫉妬深さのせいか、邪悪さのせいか知らないけれど、ぼくは完璧に無視され、だれも作品を取りあげてくれない」とプイグは一九六六年四月の手紙で家族に嘆く。ニューヨーク、メキシコ市、リオデジャネイロとずっと異国で暮らさなければならなかったのは、母国での迫害からのがれるためだったといわれている。だが、時代は移り変わり、事態は一変した。「若い世代となら理解しあえると思うんだ」とも書いたが、この予言は当たったようだ。
「北海道新聞」2007-2-6

2007年2月28日水曜日

Alfredo Bryce Echenique

■ペルーの小説家ブライス=エチェニケの回想録がこのほど(2005年)リマの出版社から刊行された。近くスペインの大手の出版社からも出る予定だ。

「パラカスでジミーと」や「幾たびもペドロ」などの邦訳のあるエチェニケだが、三十数年間のヨーロッパ生活のあと一九九〇年代のはじめにペルーに帰国した。最新作では帰国以後の日常生活やショッキングな体験についてつづっている。分厚い小説を書くエチェニケだが、この回想録も六百ページを超える。じつは一九九三年に『すみません、生きてもいいですか』という回想録を出しており、今回の『すみません、感じてもいいですか』はいわばその続編である。

タイトルからも想像されるように、エチェニケの文章は、ユーモラスで自虐的である。笑いを誘い、語り手を戯画化するのだ。その小説には、しばしば作者自身を思わせる主人公が登場するが、これについて、当人は、小説を書くと、あまりにも自伝的だといわれ、回想録を書くと、こんどはあまりにも小説的だといわれる、と笑う。要するに、エチェニケの作風はジャンルが違っても変わらず、実体験を語りながらも、フィクションと見分けがつかないものになるのだ。

ところで今回の『すみません、感じてもいいですか』(Permiso para sentir)では、ペルー帰国後に遭遇したさまざまな不愉快な事件や暴力沙汰、友人知人とのあつれきなどにも言及しており、連続的に起こったそれらが今でこそ饒舌な文体のままに語られるのだが、当時のインタビューでは、青ざめ、疲れ切った表情を浮かべていたのが思いだされる。祖国に戻ったエチェニケはけっきょく馴染むことができずに、現在も精神の安定をはかるために、ペルーとヨーロッパをしきりに往復している。悲哀もまたエチェニケの作品の特徴である。
「北海道新聞」2005.7.26

2007年2月22日木曜日

Mario Vargas Llosa

■夏の間(2005年)ひと月ほどスペイン北部の町ですごした。毎朝、新聞を買いに通った雑貨屋には売れ筋の本を並べたコーナーがあり、そこにペルーの作家マリオ・バルガス・リョサの新刊が置かれていた。題名は『不可能の誘惑』で、内扉には――ビクトル・ユゴーと『レ・ミゼラブル』――とある。要するにフランスの文豪をめぐる評論なのだ。

専門書に近い本が、地方の雑貨屋にも並ぶほどの売れ筋なのは、いささか不思議な感じもするが、バルガス・リョサは、スペイン語圏で圧倒的な人気をほこる作家である。一群の若者たちの過激な日々を描いた出世作『都会と犬ども』(1963)はいまも新しく版を重ねているし、中米の独裁者の暗殺事件をあつかった『山羊の宴』(2000)は世界的なベストセラーになり、映画化の完成も間近いそうだ。

勤勉なリョサは、これまで小説のほかに、数多くの評論も書いてきたが、そのなかでとりわけマルケスやフロベール、あるいはアルゲダスなどの作家論が光る。今回の『不可能の誘惑』は、いわばこの系列に属する作品である。

「私はこの二年間というもの、ひたすらビクトル・ユゴーの著作や彼の生きた時代について考えつづけてきた」と序文に書いてあるとおり、膨大な資料を読み漁り、オクスフォード大学に招かれてふた月ほどこのテーマで講義もおこなった。だがユゴーがいったいどういう人間だったのか、けっきょくのところ永遠にわからないだろうということだけがわかったと告白している。

とはいえ、リョサはやはり作家としての体験や鋭い嗅覚をたよりに、『レ・ミゼラブル』の行間に潜むユゴーを捕らえ、その野望やいかがわしさを随所で暴いていく。リョサのいうユゴーの「野望」とは、神に代わって完璧なリアリティのある宇宙を作品において実現するという一途な欲求だ。むろんこれはデビュー当初からリョサ自身が抱きつづけてきた野望でもある。となると、ユゴーを論じながら、今回も自身の文学について語っているといえなくもないか。
「毎日新聞」2005-10-28

2007年2月17日土曜日

Rosario Tijeras

■昨年(2003年)コロンビアへ行ってきた友人がこの本の原作を届けてくれた。やはり評判どおりのおもしろさで一気に読まされた。ヒロインは美貌の殺し屋であり、一風変わったラブストーリーといえなくもないが、ロマンチックな気分に浸れるわけではない。背後にコロンビアの悲惨な現実があるからだ。

誘拐やゲリラ、あるいは麻薬カルテルで怖い国というイメージが定着してしまったコロンビアだが、むろんそんな恐怖に満ちた日常生活ばかりではあるまい。とはいえ、著者のホルヘ・フランコもあるインタビューで、「この国で誘拐されたり殺されたりするよりは、米国へ行って皿洗いでもしたほうがましかもしれない」と語っているほどだ。

『ロサリオの鋏』の舞台は、麻薬カルテルで悪名をはせた都市メデジンだ。そのスラム街の出身であるヒロインのロサリオ・ティへーラスがそれなりの暮らしを送っているのは、マフィアのために仕事をしている「殺し屋」だからだ。ニックネームのティへーラスは、スペイン語で鋏のことで、彼女の武器と官能を暗示する。ちなみにロサリオのほうは、一般的な名前だが、宗教的な響きがあり、祈りや哀しみを連想させる。

作品はその女主人公が銃弾を浴びる場面からはじまる。冒頭の一文は、しばしば引用され、かなり有名になった――「キスの最中に、至近距離から撃たれ銃弾をまともにくらったロサリオは、恋の痛みと死の痛みとをとりちがえてしまった」。そしてすぐあとに彼女が口にするせりふは、「体じゅうに電流が流れたの。キスのせいだと思ったのに……」

死とエロス、暴力とユーモアをないまぜにしたこうした語り口に、ときおりラテンアメリカ的といってもよい、やや過剰なセンチメンタリズムが加わる。その配合の妙にこの作品の成功と大衆的な人気の秘密があろう。スペイン語圏で三十万部売れたそうだ。

場面の展開はスピーディで、会話のテンポも小気味よい。日本語訳も一気に読まされたが、読んだあと、映画を見たような気分を味わった。良きにつけ悪しきにつけこれがホルヘ・フランコのスタイルである。
「日本経済新聞」2004-2-15

2007年2月16日金曜日

Pablo Neruda

■今年(2004年)は、チリのノーベル賞詩人パブロ・ネルーダの生誕百周年にあたる。スペインやポルトガル、ドイツ、エクアドルなど、さまざまな国でさまざまな催し物が準備されている。むろん故国のチリでも朗読会や音楽会、写真展や絵画展などが開催される。33軒のレストランがネルーダにちなんだ料理を用意するという企画も決まったそうだ。

69歳で亡くなったネルーダだが、生前はでっぷりと太った美食家で、ノーベル賞を受賞したときはフランス駐在大使だった。にぎやかなパーティが好きで、ワインの目利きでもあった。

もっとも若いころは、自作の朗読会などで張りのある低音を響かせて、詰めかけた若い女性フアンをうっとりさせたらしい。そうした折りの十八番【おはこ】は、むろん『二十の愛の詩と一つの絶望の歌』であった。20歳のときに発表したこの愛と官能の詩集は、いまも新しい世代に読み継がれ、いくつもの版が出まわっている。

そういえば先日、ペルーの作家バルガスリョサが、イギリスBBCのラジオ番組で、母親が寝室に置いていたこの詩集を、「子どもが読んではいけません」と厳しく言い渡されたけれど、母親の目を盗んでこっそり読んだのだと語っていた。

そのリョサは後年、太平洋の荒波が打ち寄せるイスラ・ネグラのネルーダ邸に招かれた。詩人はここで船長の帽子を被り、ラッパを吹き鳴らし、魚の絵柄をあしらった青い旗を棹に掲げて、多くのゲストに美味な料理をふるまった。

晩年のネルーダは、目に触れるものすべて、自在に詩に歌った。玉ねぎやレモン、ワインやパンも彼の詩心をそそった。それらを称える作品は『基本的な頌歌(オード)』に収められている。チリの33軒のレストランも、それらの頌歌に思いを馳せながら献立を考えることになるだろう。――パンよ おまえは/小麦粉と/水とでこねられて/火に焼かれて/脹【ふく】れあがる/重苦しそうと思えば 軽やかになり/平【ひら】たいと思えば 丸くなり/おまえはまるで/母親の/お腹【なか】の/まねをする……「パンへのオード」(大島博光訳)
「朝日新聞」2004-7-26

2007年2月15日木曜日

Alonso Cueto

■三月の半ばに二週間ほどペルーのリマに滞在した(2006)。ホテルの近くに大きな本屋があり、アロンソ・クエト(一九五四ー )の著作を何冊か買い集めた。ペルー文学のコーナーに、クエトの長編小説や短編集、戯曲、コラム集などが十冊以上並んでいたので、当地でそれなりの人気作家であることが知れた。だがペルー以外では、ついこのあいだまで、ほとんど無名であった。このあいだまでというのは、スペインの出版社が出している有力な文学賞のひとつ、エラルデ賞を先だって受賞したばかりだからである。今後は大手の出版社からつぎつぎと作品が刊行され、ペルーのみならずスペイン語圏全体で読まれるようになっていくにちがいない。

リマ滞在中に本屋で手に入れたクエトの著作をさっそく読んでみたが、そこに描きだされている風景は、まさしく目の前のリマの風景そのものであった。街が砂漠の中にまで際限なく広がり、モダンな高層ビルと崩れかかる手作りのバラックが同じ視野の中に同等の存在感をもって立ち並ぶ。そして旧市街では、植民地時代のバルコニーが美しくライトアップされ、歴史と退廃、活気と喧噪が渦を巻く。狭い通りにはアンデスの先住民や中国人、白人や黒人や混血がひしめきあい、路地ごとに汗と土と油のにおいが交錯する。そんなリマは、「テンションが高く、小説家にとっては物語の宝庫である」とクエトはいう。

エラルデ賞を受賞した『青い時間』では、有能な若い弁護士が、軍人だった父親の過去の行状を明らかにしていく。そしてここでも等身大のリマが描きだされる。だが、クエトのすぐれたところは、そんなエネルギーに満ちた「現在」のリマには、一九八〇年代から九〇年代のおぞましい「過去」がなお疼【うず】いており、あとの世代であれ、その負の遺産から目をそらすことなく、なすべきことは誠実になさねばならないと指摘することだろう。――一九八〇年代には残忍なゲリラ組織がアンデスに跋扈【ばっこ】し、それを掃討する政府軍も多くの無辜【むこ】の民を蹂躙した。ペルー日本大使公邸占拠事件もあり、われわれにとっても無縁な過去ではない
「北海道新聞」2006-3-28

2007年2月14日水曜日

Antonio Skarmeta

■スペインのプラネタ賞は今年で52回目をかぞえる。賞金はノーベル文学賞につぐ高額で、60万1千ユーロ(約8000万円)の大盤ぶるまいである。

この懸賞小説には、世界中から500点を超える応募がある。ノーベル賞やセルバンテス賞を受賞したほどの高名な作家も匿名で応募してくる。受賞者リストには彼らの名前が並んでいる。出版社が裏で手を回しているといううわさもときおり流れるが。

今年度の受賞作は、アントニオ・スカルメタ(1940ー )の『ビクトリアのダンス』に決まった。スカルメタはピノチェトの軍政時代に、長くドイツで亡命生活を送ったチリの作家である。

日本では、数年前に話題を呼んだ映画「イル・ポスティーノ」の原作者として記憶されているかもしれない。チリのノーベル賞詩人ネルーダと、彼のもとへ自転車に乗って郵便物をとどける若者との交流を描いた作品だ。木訥(ぼくとつ)な郵便配達人を、イタリアの名優、故マッシモ・トロイージが好演した。

今回の受賞作では、ピノチェト将軍が去ったあとのチリが舞台だ。年老いた大泥棒と、社会に不満と苛立ちをつのらせる若い男女の友情が、ユーモアと詩情を織りまぜて描きだされる。

受賞式の折りの記者会見でスカルメタは、「チリには、苦痛の遺産を背負わされた若者たちがいる。彼らはその苦痛をのりこえようと懸命だ」と語っていた。軍政時代の傷が思わぬところでいまも疼(うず)いているということだろう。

1960年代に華々しくデビューしながらも、これまでマルケスやバルガスリョサら、《ブーム》の作家たちの陰に隠れてきたスカルメタだ。プラネタ賞受賞で名実ともにベストセラー作家の仲間入りを果たすことになる。『ビクトリアのダンス』の初版は21万部だという。「ビクトリアのダンス」はスペイン語で「勝利のダンス」という意味でもある。
「朝日新聞」2003-12-25

Pedro Páramo

■ラテンアメリカ文学の最もすぐれた作品のひとつとされる『ペドロ・パラモ』がメキシコで刊行されたのは、今からちょうど五十年前である。そして作者のフアン・ルルフォが亡くなってからそろそろ二十年の歳月が過ぎようとしている。メキシコではこの節目に合わせるように、『ペドロ・パラモ』をめぐるさまざまな著作があいついで発表されている。当時の批評家たちがこの小説をどのように受けとめたかを綿密に追った研究「『ペドロ・パラモ』初期の受容――一九五五~一九六三」もそうした一冊である。

この本のページを繰ると、ルルフォの小説がかならずしも最初からすんなりと受け入れられたわけではないことがわかる。物語の断片化や、異なった時間と空間を行きつ戻りつしながら死者たちの世界を編み上げるその手法が、むしろ奇異で未熟なものとして受けとめられたようだ。もっとも年を追うごとに評価は逆転し、やがて海外でも絶讃される。一九五八年にドイツ語訳、翌年にフランス語訳や英訳が完成した。

とはいえ、読者の期待に反してルルフォは、その後、小説を書かなかった。亡くなるまでの三十年間はひたすら沈黙を守った。最晩年の短いエッセイでは、『ペドロ・パラモ』の初版二千部を売り切るのに四年かかったと回想し、清書した原稿をさらに三回書き直したと記している。その作業を通じて、三百枚あった原稿が半分に圧縮された。

じつはそのタイプライター原稿が、最近、出版社の倉庫でみつかった。また決定稿から削られた断片のいくつかもルルフォの部屋から出てきた。こちらは数年前に『ルルフォのノート』という本のなかに収録された。

というわけで、半世紀たったところでそれらの資料をもとに、『ペドロ・パラモ』ができあがっていった過程がつまびらかにされつつある。ペドロ・パラモという地方ボスの栄枯と盛衰、夢と挫折、その背後に潜む「宿命や業の見えない網の目」をみごとに浮かび上がらせた手だてが、はたして偶然の産物だったのか、それともやはりルルフォの飽くなき推敲のたまものだったのか、明らかになる日も間近いか。
「北海道新聞」2005-5-17

2007年2月12日月曜日

Diamantes y pedernales

■この短編集は、二年ほど前に訳した『アルゲダス短編集』の続編である。アルゲダスがその後半生に書いた短編のほぼ全作品をこの一冊に集めた。それらの物語の舞台は、たいがいペルーのアンデスだ。先住民のインディオたちと暮らした作者の少年時代の日々を描いているのである。 

表題作の「ダイヤモンドと火打ち石」はじつは、アルゲダスにとって十数年ぶりの小説であった。長いスランプを経て再び勢いを得たアルゲダスは、つぎつぎと力作を発表していく。そのいくつかを今回この短編集に収録することができた。なかでも、異形のダンサック(踊り手)の死と再生の舞を描いた「ラス・ニーティの最期」は圧巻だ。光と闇が交錯する空間での息も絶え絶えの舞は、自らの死を選ぶ晩年のアルゲダスの苦闘さえも予兆するかのようだ。
「東京新聞」2005-7-14

Che Guevara

■「写真家エルネスト・チェ・ゲバラ」と題された写真展がイタリアで催されている。メキシコ、スペイン、ドイツと巡回してきた写真展であるが、キューバ革命の英雄の意外な側面を披露して、話題を呼んでいる。なにしろ、ゲバラが1950年代半ば、メキシコで一時期、アルゼンチンの通信社のカメラマンとして仕事をしていたことはあまり知られていないのだから。 

そればかりではない。キューバの山中で、ゲリラ兵士としてカストロとともに戦っていたときもカメラを持ち歩いていたし、革命成立後、来日した折に訪れた広島で自ら撮った写真も残っているのである。 

写真展では、そうした折々の作品が二百枚あまり展示されており、スペイン人の専門家が数年がかりで調査、蒐集したものだという。むろんゲバラの遺族やキューバのチェ・ゲバラ研究センターなどの協力も大きく寄与している。 

写真の一部は、これまで写真展が開催された国の新聞や雑誌でも紹介されているが、ゲバラがメキシコで取材したスポーツ大会のものでは、選手が棒高跳びのバーを超える劇的な一瞬や、表彰式でのメダリストのユーモラスなポーズも確実に捉えており、なるほどプロらしい技量を感じさせる。 

またコレクションのなかには、映画の一場面でようで、どこか郷愁を誘う海辺の写真もある。――波の砕け散る砂浜で、背広姿の中年の男と、腰に手をあてた婦人がたたずんでおり、その遠くを大型船が通り過ぎていく……。 

とはいえ、やはり「タンザニア1965年」というキャプションのついたセルフポートレートが否応なくこちらの視線を引きつける。ひげも長髪も落としたランニングシャツ姿のゲバラは、机の上の書類の山の向こうから頭だけをこちらに向け、どこか途方に暮れている様子である。画面全体も傾き、すべてが滑っていくような不安感を漂わせる。ゲバラがボリビアのジャングルで捕らえられ、処刑されるのはその2年後である。
「朝日新聞」2004-10-14

Juan Carlos Onetti

■ウルグアイの作家オネッティ(一九〇八~一九九四)が亡くなってからはや11年が過ぎた。亡命先のスペインで長く暮らし、そこで亡くなったが、このほどその遺品の一部がウルグアイに里帰りをし、モンテビデオのスペイン文化センターで展示されている(2005年5月のこと)。

オネッティが一九七〇年代の半ばに、スペインへ逃れなければならなかったいきさつは、今も語りぐさになっている。とある文学賞の審査員だった彼は、受賞作に「猥褻な作品」を選んだとして軍事政権に逮捕され、亡命をよぎなくされたのだった。

以来20年近くスペインのマドリードにとどまった。軍事政権の崩壊後のインタビューで、ウルグアイに戻りたくないかと聞かれ、「戻りたくないな。思い出や人びとは懐かしいけれど、あれはもう過去のことで、私も年とってしまった」と答えていた。

今回、帰還を果たしたのは、手書きの原稿や使い込まれたノート、マドリードの寝室を飾った絵やお気に入りの彫像などだ。亡命する前に使っていた机もどこからか出てきたようで、その上にお馴染みの太い黒縁の眼鏡が置かれている。それを見て、オネッティの広い額や長い顔、タバコの煙と苦虫を噛み潰したようなその口もとを思い浮かべる見学者は少なくあるまい。辛辣、無愛想、厭世家で通っていたオネッティだ。

その代表作のうち『井戸』(一九三九)と『はかない人生』(一九五〇)は、日本語で読むことができる。空気のよどんだ薄暗い部屋で夢想にふける虚無的な男たち。彼らの夢想する世界は、精緻で強固だ。そしてやがて強力な磁力を発して、その世界が自律的に動きはじめるのだ。

オネッティは今なお新しい熱烈な愛読者を獲得している。展示会の様子を伝えるホームページは、ドイツ語訳の全集が出はじめたことも伝えている。そういえばスペインでも近く、3巻本の全集が刊行される予定だ。「朝日新聞」2005-5-31

Guillermo Cabrera Infante

■2月下旬にロンドンで亡くなったキューバの亡命作家カブレラ=インファンテ(1929~2005)は、スペイン黄金世紀の巨匠ケベードの風貌にどこか似ていた。しかめっ面に古風なまるい眼鏡、それに短いしゃれたあごひげ。 

ケベードと同じく、ひとつの文のなかに、幾層もの意味をしのばせるのが得意だった。そしてエッセイなどでは、笑いを誘いつつ、鋭く対象に切り込み、言葉の軽業師と呼ばれた。 

カストロ政権を批判し、ロンドンにのがれたのは一九六五年。早い時点でのキューバ革命からの離脱だった。 

亡命後にスペインで刊行された『三匹の悲しい虎』(1967)により一躍脚光を浴び、マルケス、リョサ、コルタサルらとラテンアメリカ文学の全盛時を築いた。1997年にはスペイン語圏で最も権威のある文学賞セルバンテス賞を受けている。 

カブレラ=インファンテの小説の舞台は、たいがい革命前のハバナだった。邦訳のある2つの作品、短編集『平和のときも戦いのときも』(1960)も、自伝的長編『亡き王子のためのハバーナ』(1979)も例外ではない。ちなみに「亡き王子~」は、ラヴェルの曲「亡き王女のためのパヴァーヌ」のもじりで、「王子」には、カブレラ=インファンテ自身の名前も重ねられている(なにしろ王子は、スペイン語でインファンテという)。 

追憶のなかの折々のハバナは、官能と活気にあふれ、きらびやかな夜の街にねっとりと音楽が響きわたり、交わされる言葉がしなやかに身をくねらせる。そしてふっともの悲しげな郷愁が漂うのである。 「彼の描いたキューバはどこにも存在しないのです」とカブレラ=インファンテの妻が、作家の亡くなった日に語っていた。遺体は荼毘に付され、キューバへの帰還の日をさらに待ち続けるのだそうだ。
「朝日新聞」2005-4-12

La tía Julia y el escribidor

■これはラテンアメリカ文学の熱気がまだ冷めやらぬ一九七〇年代の後半に刊行され、バルガス=リョサ自身が私生活さえ赤裸々に盛り込みながら、作家という人種のパロディ、その過剰さと悲哀をこっけいな筆致で描きだしてみせた話題作である。 

当時のリョサは、三十代の半ばまでに『都会と犬ども』『緑の家』『ラ・カテドラルでの対話』(いずれも邦訳がある)といった重厚な大作を発表し、すでに世界的な名声を得ていた。確固たる地位を築いた自信もあろうか、それまでの手法と打ってかわって、軽やかな文章や笑い、娯楽的な要素を駆使して、新しい文学の地平に果敢に挑んでいた。『フリアとシナリオライター』はそのころの大きな成果である。

作品の冒頭近くで、〝僕〟の口さがない伯母のひとりが眉をひそめながらこういう――「フリアったらリマへ来て最初の一週間に、もう四人の男と出かけているのよ。しかも一人は女房持ち。まったく、バツイチ女は手がつけられないわ」。 

じつはくだんのフリアも、僕の叔母のひとりであり、物語はこのあと、隣国ボリビアから出戻ってきた一まわり年上の美貌の彼女と、ラジオ局でアルバイトをする作家志望の十八歳の僕との、いささかどたばた的な恋愛をめぐって展開するのである。 

しかも僕の名前は、バルガス=リョサであり、フリア叔母さんは、実人生でも最初の妻となったフリアその人だというのだから、現実とフィクションが分かちがたいものとして仕組まれており、これも読者を煙に巻くためのリョサ一流の計算だろう。 

ところで、タイトルのシナリオライターは、〝僕〝がラジオ局で知り合うことになるあこがれの〝作家〟だ。さまざまな人物に変装して、ラジオ局の小部屋で一心不乱にタイプライターに向かう風変わりな男だが、現実とフィクションを絶え間なく行き来するそのなりわいの崇高さと猥雑さと危なっかしさは、むろん今ではリョサ自身のものでもある。
「京都新聞」2004-6-27