2007年2月28日水曜日

Alfredo Bryce Echenique

■ペルーの小説家ブライス=エチェニケの回想録がこのほど(2005年)リマの出版社から刊行された。近くスペインの大手の出版社からも出る予定だ。

「パラカスでジミーと」や「幾たびもペドロ」などの邦訳のあるエチェニケだが、三十数年間のヨーロッパ生活のあと一九九〇年代のはじめにペルーに帰国した。最新作では帰国以後の日常生活やショッキングな体験についてつづっている。分厚い小説を書くエチェニケだが、この回想録も六百ページを超える。じつは一九九三年に『すみません、生きてもいいですか』という回想録を出しており、今回の『すみません、感じてもいいですか』はいわばその続編である。

タイトルからも想像されるように、エチェニケの文章は、ユーモラスで自虐的である。笑いを誘い、語り手を戯画化するのだ。その小説には、しばしば作者自身を思わせる主人公が登場するが、これについて、当人は、小説を書くと、あまりにも自伝的だといわれ、回想録を書くと、こんどはあまりにも小説的だといわれる、と笑う。要するに、エチェニケの作風はジャンルが違っても変わらず、実体験を語りながらも、フィクションと見分けがつかないものになるのだ。

ところで今回の『すみません、感じてもいいですか』(Permiso para sentir)では、ペルー帰国後に遭遇したさまざまな不愉快な事件や暴力沙汰、友人知人とのあつれきなどにも言及しており、連続的に起こったそれらが今でこそ饒舌な文体のままに語られるのだが、当時のインタビューでは、青ざめ、疲れ切った表情を浮かべていたのが思いだされる。祖国に戻ったエチェニケはけっきょく馴染むことができずに、現在も精神の安定をはかるために、ペルーとヨーロッパをしきりに往復している。悲哀もまたエチェニケの作品の特徴である。
「北海道新聞」2005.7.26

2007年2月22日木曜日

Mario Vargas Llosa

■夏の間(2005年)ひと月ほどスペイン北部の町ですごした。毎朝、新聞を買いに通った雑貨屋には売れ筋の本を並べたコーナーがあり、そこにペルーの作家マリオ・バルガス・リョサの新刊が置かれていた。題名は『不可能の誘惑』で、内扉には――ビクトル・ユゴーと『レ・ミゼラブル』――とある。要するにフランスの文豪をめぐる評論なのだ。

専門書に近い本が、地方の雑貨屋にも並ぶほどの売れ筋なのは、いささか不思議な感じもするが、バルガス・リョサは、スペイン語圏で圧倒的な人気をほこる作家である。一群の若者たちの過激な日々を描いた出世作『都会と犬ども』(1963)はいまも新しく版を重ねているし、中米の独裁者の暗殺事件をあつかった『山羊の宴』(2000)は世界的なベストセラーになり、映画化の完成も間近いそうだ。

勤勉なリョサは、これまで小説のほかに、数多くの評論も書いてきたが、そのなかでとりわけマルケスやフロベール、あるいはアルゲダスなどの作家論が光る。今回の『不可能の誘惑』は、いわばこの系列に属する作品である。

「私はこの二年間というもの、ひたすらビクトル・ユゴーの著作や彼の生きた時代について考えつづけてきた」と序文に書いてあるとおり、膨大な資料を読み漁り、オクスフォード大学に招かれてふた月ほどこのテーマで講義もおこなった。だがユゴーがいったいどういう人間だったのか、けっきょくのところ永遠にわからないだろうということだけがわかったと告白している。

とはいえ、リョサはやはり作家としての体験や鋭い嗅覚をたよりに、『レ・ミゼラブル』の行間に潜むユゴーを捕らえ、その野望やいかがわしさを随所で暴いていく。リョサのいうユゴーの「野望」とは、神に代わって完璧なリアリティのある宇宙を作品において実現するという一途な欲求だ。むろんこれはデビュー当初からリョサ自身が抱きつづけてきた野望でもある。となると、ユゴーを論じながら、今回も自身の文学について語っているといえなくもないか。
「毎日新聞」2005-10-28

2007年2月17日土曜日

Rosario Tijeras

■昨年(2003年)コロンビアへ行ってきた友人がこの本の原作を届けてくれた。やはり評判どおりのおもしろさで一気に読まされた。ヒロインは美貌の殺し屋であり、一風変わったラブストーリーといえなくもないが、ロマンチックな気分に浸れるわけではない。背後にコロンビアの悲惨な現実があるからだ。

誘拐やゲリラ、あるいは麻薬カルテルで怖い国というイメージが定着してしまったコロンビアだが、むろんそんな恐怖に満ちた日常生活ばかりではあるまい。とはいえ、著者のホルヘ・フランコもあるインタビューで、「この国で誘拐されたり殺されたりするよりは、米国へ行って皿洗いでもしたほうがましかもしれない」と語っているほどだ。

『ロサリオの鋏』の舞台は、麻薬カルテルで悪名をはせた都市メデジンだ。そのスラム街の出身であるヒロインのロサリオ・ティへーラスがそれなりの暮らしを送っているのは、マフィアのために仕事をしている「殺し屋」だからだ。ニックネームのティへーラスは、スペイン語で鋏のことで、彼女の武器と官能を暗示する。ちなみにロサリオのほうは、一般的な名前だが、宗教的な響きがあり、祈りや哀しみを連想させる。

作品はその女主人公が銃弾を浴びる場面からはじまる。冒頭の一文は、しばしば引用され、かなり有名になった――「キスの最中に、至近距離から撃たれ銃弾をまともにくらったロサリオは、恋の痛みと死の痛みとをとりちがえてしまった」。そしてすぐあとに彼女が口にするせりふは、「体じゅうに電流が流れたの。キスのせいだと思ったのに……」

死とエロス、暴力とユーモアをないまぜにしたこうした語り口に、ときおりラテンアメリカ的といってもよい、やや過剰なセンチメンタリズムが加わる。その配合の妙にこの作品の成功と大衆的な人気の秘密があろう。スペイン語圏で三十万部売れたそうだ。

場面の展開はスピーディで、会話のテンポも小気味よい。日本語訳も一気に読まされたが、読んだあと、映画を見たような気分を味わった。良きにつけ悪しきにつけこれがホルヘ・フランコのスタイルである。
「日本経済新聞」2004-2-15

2007年2月16日金曜日

Pablo Neruda

■今年(2004年)は、チリのノーベル賞詩人パブロ・ネルーダの生誕百周年にあたる。スペインやポルトガル、ドイツ、エクアドルなど、さまざまな国でさまざまな催し物が準備されている。むろん故国のチリでも朗読会や音楽会、写真展や絵画展などが開催される。33軒のレストランがネルーダにちなんだ料理を用意するという企画も決まったそうだ。

69歳で亡くなったネルーダだが、生前はでっぷりと太った美食家で、ノーベル賞を受賞したときはフランス駐在大使だった。にぎやかなパーティが好きで、ワインの目利きでもあった。

もっとも若いころは、自作の朗読会などで張りのある低音を響かせて、詰めかけた若い女性フアンをうっとりさせたらしい。そうした折りの十八番【おはこ】は、むろん『二十の愛の詩と一つの絶望の歌』であった。20歳のときに発表したこの愛と官能の詩集は、いまも新しい世代に読み継がれ、いくつもの版が出まわっている。

そういえば先日、ペルーの作家バルガスリョサが、イギリスBBCのラジオ番組で、母親が寝室に置いていたこの詩集を、「子どもが読んではいけません」と厳しく言い渡されたけれど、母親の目を盗んでこっそり読んだのだと語っていた。

そのリョサは後年、太平洋の荒波が打ち寄せるイスラ・ネグラのネルーダ邸に招かれた。詩人はここで船長の帽子を被り、ラッパを吹き鳴らし、魚の絵柄をあしらった青い旗を棹に掲げて、多くのゲストに美味な料理をふるまった。

晩年のネルーダは、目に触れるものすべて、自在に詩に歌った。玉ねぎやレモン、ワインやパンも彼の詩心をそそった。それらを称える作品は『基本的な頌歌(オード)』に収められている。チリの33軒のレストランも、それらの頌歌に思いを馳せながら献立を考えることになるだろう。――パンよ おまえは/小麦粉と/水とでこねられて/火に焼かれて/脹【ふく】れあがる/重苦しそうと思えば 軽やかになり/平【ひら】たいと思えば 丸くなり/おまえはまるで/母親の/お腹【なか】の/まねをする……「パンへのオード」(大島博光訳)
「朝日新聞」2004-7-26

2007年2月15日木曜日

Alonso Cueto

■三月の半ばに二週間ほどペルーのリマに滞在した(2006)。ホテルの近くに大きな本屋があり、アロンソ・クエト(一九五四ー )の著作を何冊か買い集めた。ペルー文学のコーナーに、クエトの長編小説や短編集、戯曲、コラム集などが十冊以上並んでいたので、当地でそれなりの人気作家であることが知れた。だがペルー以外では、ついこのあいだまで、ほとんど無名であった。このあいだまでというのは、スペインの出版社が出している有力な文学賞のひとつ、エラルデ賞を先だって受賞したばかりだからである。今後は大手の出版社からつぎつぎと作品が刊行され、ペルーのみならずスペイン語圏全体で読まれるようになっていくにちがいない。

リマ滞在中に本屋で手に入れたクエトの著作をさっそく読んでみたが、そこに描きだされている風景は、まさしく目の前のリマの風景そのものであった。街が砂漠の中にまで際限なく広がり、モダンな高層ビルと崩れかかる手作りのバラックが同じ視野の中に同等の存在感をもって立ち並ぶ。そして旧市街では、植民地時代のバルコニーが美しくライトアップされ、歴史と退廃、活気と喧噪が渦を巻く。狭い通りにはアンデスの先住民や中国人、白人や黒人や混血がひしめきあい、路地ごとに汗と土と油のにおいが交錯する。そんなリマは、「テンションが高く、小説家にとっては物語の宝庫である」とクエトはいう。

エラルデ賞を受賞した『青い時間』では、有能な若い弁護士が、軍人だった父親の過去の行状を明らかにしていく。そしてここでも等身大のリマが描きだされる。だが、クエトのすぐれたところは、そんなエネルギーに満ちた「現在」のリマには、一九八〇年代から九〇年代のおぞましい「過去」がなお疼【うず】いており、あとの世代であれ、その負の遺産から目をそらすことなく、なすべきことは誠実になさねばならないと指摘することだろう。――一九八〇年代には残忍なゲリラ組織がアンデスに跋扈【ばっこ】し、それを掃討する政府軍も多くの無辜【むこ】の民を蹂躙した。ペルー日本大使公邸占拠事件もあり、われわれにとっても無縁な過去ではない
「北海道新聞」2006-3-28

2007年2月14日水曜日

Antonio Skarmeta

■スペインのプラネタ賞は今年で52回目をかぞえる。賞金はノーベル文学賞につぐ高額で、60万1千ユーロ(約8000万円)の大盤ぶるまいである。

この懸賞小説には、世界中から500点を超える応募がある。ノーベル賞やセルバンテス賞を受賞したほどの高名な作家も匿名で応募してくる。受賞者リストには彼らの名前が並んでいる。出版社が裏で手を回しているといううわさもときおり流れるが。

今年度の受賞作は、アントニオ・スカルメタ(1940ー )の『ビクトリアのダンス』に決まった。スカルメタはピノチェトの軍政時代に、長くドイツで亡命生活を送ったチリの作家である。

日本では、数年前に話題を呼んだ映画「イル・ポスティーノ」の原作者として記憶されているかもしれない。チリのノーベル賞詩人ネルーダと、彼のもとへ自転車に乗って郵便物をとどける若者との交流を描いた作品だ。木訥(ぼくとつ)な郵便配達人を、イタリアの名優、故マッシモ・トロイージが好演した。

今回の受賞作では、ピノチェト将軍が去ったあとのチリが舞台だ。年老いた大泥棒と、社会に不満と苛立ちをつのらせる若い男女の友情が、ユーモアと詩情を織りまぜて描きだされる。

受賞式の折りの記者会見でスカルメタは、「チリには、苦痛の遺産を背負わされた若者たちがいる。彼らはその苦痛をのりこえようと懸命だ」と語っていた。軍政時代の傷が思わぬところでいまも疼(うず)いているということだろう。

1960年代に華々しくデビューしながらも、これまでマルケスやバルガスリョサら、《ブーム》の作家たちの陰に隠れてきたスカルメタだ。プラネタ賞受賞で名実ともにベストセラー作家の仲間入りを果たすことになる。『ビクトリアのダンス』の初版は21万部だという。「ビクトリアのダンス」はスペイン語で「勝利のダンス」という意味でもある。
「朝日新聞」2003-12-25

Pedro Páramo

■ラテンアメリカ文学の最もすぐれた作品のひとつとされる『ペドロ・パラモ』がメキシコで刊行されたのは、今からちょうど五十年前である。そして作者のフアン・ルルフォが亡くなってからそろそろ二十年の歳月が過ぎようとしている。メキシコではこの節目に合わせるように、『ペドロ・パラモ』をめぐるさまざまな著作があいついで発表されている。当時の批評家たちがこの小説をどのように受けとめたかを綿密に追った研究「『ペドロ・パラモ』初期の受容――一九五五~一九六三」もそうした一冊である。

この本のページを繰ると、ルルフォの小説がかならずしも最初からすんなりと受け入れられたわけではないことがわかる。物語の断片化や、異なった時間と空間を行きつ戻りつしながら死者たちの世界を編み上げるその手法が、むしろ奇異で未熟なものとして受けとめられたようだ。もっとも年を追うごとに評価は逆転し、やがて海外でも絶讃される。一九五八年にドイツ語訳、翌年にフランス語訳や英訳が完成した。

とはいえ、読者の期待に反してルルフォは、その後、小説を書かなかった。亡くなるまでの三十年間はひたすら沈黙を守った。最晩年の短いエッセイでは、『ペドロ・パラモ』の初版二千部を売り切るのに四年かかったと回想し、清書した原稿をさらに三回書き直したと記している。その作業を通じて、三百枚あった原稿が半分に圧縮された。

じつはそのタイプライター原稿が、最近、出版社の倉庫でみつかった。また決定稿から削られた断片のいくつかもルルフォの部屋から出てきた。こちらは数年前に『ルルフォのノート』という本のなかに収録された。

というわけで、半世紀たったところでそれらの資料をもとに、『ペドロ・パラモ』ができあがっていった過程がつまびらかにされつつある。ペドロ・パラモという地方ボスの栄枯と盛衰、夢と挫折、その背後に潜む「宿命や業の見えない網の目」をみごとに浮かび上がらせた手だてが、はたして偶然の産物だったのか、それともやはりルルフォの飽くなき推敲のたまものだったのか、明らかになる日も間近いか。
「北海道新聞」2005-5-17

2007年2月12日月曜日

Diamantes y pedernales

■この短編集は、二年ほど前に訳した『アルゲダス短編集』の続編である。アルゲダスがその後半生に書いた短編のほぼ全作品をこの一冊に集めた。それらの物語の舞台は、たいがいペルーのアンデスだ。先住民のインディオたちと暮らした作者の少年時代の日々を描いているのである。 

表題作の「ダイヤモンドと火打ち石」はじつは、アルゲダスにとって十数年ぶりの小説であった。長いスランプを経て再び勢いを得たアルゲダスは、つぎつぎと力作を発表していく。そのいくつかを今回この短編集に収録することができた。なかでも、異形のダンサック(踊り手)の死と再生の舞を描いた「ラス・ニーティの最期」は圧巻だ。光と闇が交錯する空間での息も絶え絶えの舞は、自らの死を選ぶ晩年のアルゲダスの苦闘さえも予兆するかのようだ。
「東京新聞」2005-7-14

Che Guevara

■「写真家エルネスト・チェ・ゲバラ」と題された写真展がイタリアで催されている。メキシコ、スペイン、ドイツと巡回してきた写真展であるが、キューバ革命の英雄の意外な側面を披露して、話題を呼んでいる。なにしろ、ゲバラが1950年代半ば、メキシコで一時期、アルゼンチンの通信社のカメラマンとして仕事をしていたことはあまり知られていないのだから。 

そればかりではない。キューバの山中で、ゲリラ兵士としてカストロとともに戦っていたときもカメラを持ち歩いていたし、革命成立後、来日した折に訪れた広島で自ら撮った写真も残っているのである。 

写真展では、そうした折々の作品が二百枚あまり展示されており、スペイン人の専門家が数年がかりで調査、蒐集したものだという。むろんゲバラの遺族やキューバのチェ・ゲバラ研究センターなどの協力も大きく寄与している。 

写真の一部は、これまで写真展が開催された国の新聞や雑誌でも紹介されているが、ゲバラがメキシコで取材したスポーツ大会のものでは、選手が棒高跳びのバーを超える劇的な一瞬や、表彰式でのメダリストのユーモラスなポーズも確実に捉えており、なるほどプロらしい技量を感じさせる。 

またコレクションのなかには、映画の一場面でようで、どこか郷愁を誘う海辺の写真もある。――波の砕け散る砂浜で、背広姿の中年の男と、腰に手をあてた婦人がたたずんでおり、その遠くを大型船が通り過ぎていく……。 

とはいえ、やはり「タンザニア1965年」というキャプションのついたセルフポートレートが否応なくこちらの視線を引きつける。ひげも長髪も落としたランニングシャツ姿のゲバラは、机の上の書類の山の向こうから頭だけをこちらに向け、どこか途方に暮れている様子である。画面全体も傾き、すべてが滑っていくような不安感を漂わせる。ゲバラがボリビアのジャングルで捕らえられ、処刑されるのはその2年後である。
「朝日新聞」2004-10-14

Juan Carlos Onetti

■ウルグアイの作家オネッティ(一九〇八~一九九四)が亡くなってからはや11年が過ぎた。亡命先のスペインで長く暮らし、そこで亡くなったが、このほどその遺品の一部がウルグアイに里帰りをし、モンテビデオのスペイン文化センターで展示されている(2005年5月のこと)。

オネッティが一九七〇年代の半ばに、スペインへ逃れなければならなかったいきさつは、今も語りぐさになっている。とある文学賞の審査員だった彼は、受賞作に「猥褻な作品」を選んだとして軍事政権に逮捕され、亡命をよぎなくされたのだった。

以来20年近くスペインのマドリードにとどまった。軍事政権の崩壊後のインタビューで、ウルグアイに戻りたくないかと聞かれ、「戻りたくないな。思い出や人びとは懐かしいけれど、あれはもう過去のことで、私も年とってしまった」と答えていた。

今回、帰還を果たしたのは、手書きの原稿や使い込まれたノート、マドリードの寝室を飾った絵やお気に入りの彫像などだ。亡命する前に使っていた机もどこからか出てきたようで、その上にお馴染みの太い黒縁の眼鏡が置かれている。それを見て、オネッティの広い額や長い顔、タバコの煙と苦虫を噛み潰したようなその口もとを思い浮かべる見学者は少なくあるまい。辛辣、無愛想、厭世家で通っていたオネッティだ。

その代表作のうち『井戸』(一九三九)と『はかない人生』(一九五〇)は、日本語で読むことができる。空気のよどんだ薄暗い部屋で夢想にふける虚無的な男たち。彼らの夢想する世界は、精緻で強固だ。そしてやがて強力な磁力を発して、その世界が自律的に動きはじめるのだ。

オネッティは今なお新しい熱烈な愛読者を獲得している。展示会の様子を伝えるホームページは、ドイツ語訳の全集が出はじめたことも伝えている。そういえばスペインでも近く、3巻本の全集が刊行される予定だ。「朝日新聞」2005-5-31

Guillermo Cabrera Infante

■2月下旬にロンドンで亡くなったキューバの亡命作家カブレラ=インファンテ(1929~2005)は、スペイン黄金世紀の巨匠ケベードの風貌にどこか似ていた。しかめっ面に古風なまるい眼鏡、それに短いしゃれたあごひげ。 

ケベードと同じく、ひとつの文のなかに、幾層もの意味をしのばせるのが得意だった。そしてエッセイなどでは、笑いを誘いつつ、鋭く対象に切り込み、言葉の軽業師と呼ばれた。 

カストロ政権を批判し、ロンドンにのがれたのは一九六五年。早い時点でのキューバ革命からの離脱だった。 

亡命後にスペインで刊行された『三匹の悲しい虎』(1967)により一躍脚光を浴び、マルケス、リョサ、コルタサルらとラテンアメリカ文学の全盛時を築いた。1997年にはスペイン語圏で最も権威のある文学賞セルバンテス賞を受けている。 

カブレラ=インファンテの小説の舞台は、たいがい革命前のハバナだった。邦訳のある2つの作品、短編集『平和のときも戦いのときも』(1960)も、自伝的長編『亡き王子のためのハバーナ』(1979)も例外ではない。ちなみに「亡き王子~」は、ラヴェルの曲「亡き王女のためのパヴァーヌ」のもじりで、「王子」には、カブレラ=インファンテ自身の名前も重ねられている(なにしろ王子は、スペイン語でインファンテという)。 

追憶のなかの折々のハバナは、官能と活気にあふれ、きらびやかな夜の街にねっとりと音楽が響きわたり、交わされる言葉がしなやかに身をくねらせる。そしてふっともの悲しげな郷愁が漂うのである。 「彼の描いたキューバはどこにも存在しないのです」とカブレラ=インファンテの妻が、作家の亡くなった日に語っていた。遺体は荼毘に付され、キューバへの帰還の日をさらに待ち続けるのだそうだ。
「朝日新聞」2005-4-12

La tía Julia y el escribidor

■これはラテンアメリカ文学の熱気がまだ冷めやらぬ一九七〇年代の後半に刊行され、バルガス=リョサ自身が私生活さえ赤裸々に盛り込みながら、作家という人種のパロディ、その過剰さと悲哀をこっけいな筆致で描きだしてみせた話題作である。 

当時のリョサは、三十代の半ばまでに『都会と犬ども』『緑の家』『ラ・カテドラルでの対話』(いずれも邦訳がある)といった重厚な大作を発表し、すでに世界的な名声を得ていた。確固たる地位を築いた自信もあろうか、それまでの手法と打ってかわって、軽やかな文章や笑い、娯楽的な要素を駆使して、新しい文学の地平に果敢に挑んでいた。『フリアとシナリオライター』はそのころの大きな成果である。

作品の冒頭近くで、〝僕〟の口さがない伯母のひとりが眉をひそめながらこういう――「フリアったらリマへ来て最初の一週間に、もう四人の男と出かけているのよ。しかも一人は女房持ち。まったく、バツイチ女は手がつけられないわ」。 

じつはくだんのフリアも、僕の叔母のひとりであり、物語はこのあと、隣国ボリビアから出戻ってきた一まわり年上の美貌の彼女と、ラジオ局でアルバイトをする作家志望の十八歳の僕との、いささかどたばた的な恋愛をめぐって展開するのである。 

しかも僕の名前は、バルガス=リョサであり、フリア叔母さんは、実人生でも最初の妻となったフリアその人だというのだから、現実とフィクションが分かちがたいものとして仕組まれており、これも読者を煙に巻くためのリョサ一流の計算だろう。 

ところで、タイトルのシナリオライターは、〝僕〝がラジオ局で知り合うことになるあこがれの〝作家〟だ。さまざまな人物に変装して、ラジオ局の小部屋で一心不乱にタイプライターに向かう風変わりな男だが、現実とフィクションを絶え間なく行き来するそのなりわいの崇高さと猥雑さと危なっかしさは、むろん今ではリョサ自身のものでもある。
「京都新聞」2004-6-27