2007年3月25日日曜日

Isabel Allende

■ラテンアメリカの女性作家のなかで圧倒的な人気をほこるチリ出身のイサベル・アジェンデ。その新作『わが魂のイネス』がこのほど(2006年)ラテンアメリカやスペインの出版社からあいついで刊行された。十六世紀にスペインの征服者たちが勇んで新大陸の各地に乗り込んでいった時代に、彼らにまじって活躍した女性イネス・スアレスの話である。これまで歴史の表舞台でとりあげられることなく、ほとんど忘れられてきた存在であるが、アジェンデにいわせると、それは「歴史がたいがい男たちの手で、それも勝者側の白人たちの手で、書かれてきたから」である。イネス・デ・スアレスはスペインから新世界に渡り、屈強な征服者たちと行動を共にし、今のチリで先住民のマプーチェ族と戦い、サンチアゴのまちを建設した。

ところで、アステカ王国を滅ぼした征服者がコルテスであるように、あるいはインカ王国を滅亡させたのがピサロであるように、勇敢なマプーチェ族をねじ伏せ、現在のチリに当たる地域を征服したのはペドロ・デ・バルディビアという猛者である。『わが魂のイネス』はじつは、イネス・スアレスとこのペドロ・デ・バルディビアとの数奇な恋物語でもある。チリ征服の偉業は、ふたりの魂の強力な結び付きによってなしとげられたというのがアジェンデの見方である。イネスの知恵と才覚によりバルディビアは何度も窮地を救われ、ときには彼女自身が短刀を握って兵士たちの先頭に立ち、首長の首をかき切ったこともある。それらのエピソードは史実に基づいており、アジェンデは当時の資料を読みあさったのだという。

イサベル・アジェンデは日本でも『精霊たちの家』『エバ・ルナ』『パウラ』などの作品で知られる。米国カリフォルニアに生活の場を移してからもう二十年近くになる。朝起きると、まずしっかり嵩のあるヒールの靴をはくのだそうだ。「ちょっとおチビさんだものね」。新しい作品はかならず一月八日から書き始める。今回も物語がすらすら口をついて出たという。「わたしの名はイネス・スアレス。チリ王国サンチアゴの住人……」アジェンデには現代のシェヘラザードとの異名がある。
「北海道新聞」2006-11-14

2007年3月18日日曜日

Mario Vargas Llosa

■ペルーの作家マリオ・バルガス=リョサの新しい長編『すぐむこうの楽園』が、このほど(2003年3月)スペインのアルファグアラ社から刊行された。またも五百ページ近くの大作である。後期印象派の画家ポール・ゴーギャンと、その祖母フローラ・トリスタンが主人公だ。ゴーギャンが、南太平洋マルケサス諸島のヒヴァ=オア島で亡くなったのは一九〇三年だから、今年でちょうど百年になる。

リョサが昨年、タヒチへ取材に出かけたことは、ペルーの雑誌の記事で知っていたが、どうやらその折りに、娘のモルガナ・バルガス=リョサが同伴していたようで、彼女の手になる写真集『楽園の写真』も、父親の小説と同時に出版された。

日本では画家ゴーギャンはあまりにも有名だが、祖母のフローラ・トリスタンのことはあまり知られていない。彼女はフランス生まれだが、父親はペルー人で、十九世紀の前半に、父親の故郷を訪れたさいの見聞をまとめた著作もある。その縁で、ペルーの文学史にも登場する。とはいえ、フローラ・トリスタンは、いまでは、むしろ労働者の団結や、女性の地位向上をいち早く訴え、その実現のために先駆的な働きをした女性として、世界的に評価されているのである。

バルガス=リョサの『すぐ向こうの楽園』では、このフローラと孫のゴーギャンの波乱にみちた生涯が二十二章にわたって交互に語られる。フローラは熱情にかられたように「理想」を追い求め、孫のゴーギャンもまた、この地上に「楽園」を求めてタヒチへおもむく。素朴な人びとや手つかずの自然、横溢する生命力をそこに見いだすわけだが、最後の章でリョサは、ほとんど目の見えなくなった悲惨な姿のゴーギャンに、ここは楽園などではなかった、自分は日本に行くべきだったといわせるのである。

表題の『すぐむこうの楽園』は、手が届きそうで永遠に手が届かないユートピアの本質を暗示している。
「北海道新聞」2003-7-29

2007年3月7日水曜日

Julio Cortázar

■日本でも評価の高いアルゼンチンの作家フリオ・コルタサル。短編に定評があり、主要なものは、あらかた日本語で読むことができる。たとえば『悪魔の涎・追い求める男』(岩波文庫)や『すべての火は火』(水声社)。とはいえ、コルタサルは小説のほかに、かなりの数の詩も書いた。それらがこのほど一冊の本にまとめられた。「詩と詩論」と題されたコルタサル全集の第四巻である。スペインの出版社から刊行され、千四百ページを超える分厚い本となった。

マドリードでの出版報告会では、コルタサルの最初の妻で、その最期を看取ったアウロラ・ベルナルデスは、「コルタサルは短編の書き手としてあまりにも有名になったので、十二歳の時から詩を書いていたことを多くの人びとは忘れてしまった」と語っていた。そんな事情もあってか、さまざまな雑誌に散逸していた作品や未発表の作品なども地道に探しだされ、この堂々たる第四巻が編まれたのである。

ほかの者たちが引きあげ/空になったグラスや汚れた灰皿がのこり/君とふたりだけになる/静かな淵のように君がそこにいることが/なんと素敵なことだったか/夜の端に君がいて/そしてなおもそこにいて、時を凌駕する/……」

「パーティーのあとで」と題された作品の一部である。しなやかなリズムやノスタルジックな気分は、パリを舞台に南米の不思議な娼婦ラ・マーガとの日々を描いたコルタサルの名高い長編小説『石蹴り遊び』(集英社)をほうふつとさせる。

コルタサルは一九五〇年代のはじめに、ブエノスアイレスからパリに移り住み、後半生をこの街で暮らした。その折々に密やかで、ナイーブといってよい声で小さな作品をつづった。それはアルゼンチンのさまざまな都市を転々としていた時代からの習わしだった。だからある意味では先のアウロラ・ベルナルデスがいうように、「コルタサルの最良の伝記は、彼の詩の中にある」ともいえるのである。
「北海道新聞」2005.12.27

2007年3月4日日曜日

Manuel Puig

■アルゼンチンの作家マヌエル・プイグが来日したのは一九九〇年で、その年に突如として亡くなったのだから、もうかれこれ十五年以上が過ぎたことになる。来日した折りには長編小説『蜘蛛女のキス』や『赤い唇』などですでに世界的な作家になっていたが、死後もその評価は高まるばかりである。とりわけ母国アルゼンチンでの再評価がいちじるしい。かつては、その斬新さが通俗的だと見下され、ホモセクシュアルだったこともたたって、冷遇された時期が長くつづいたからだ。いまでは、ボルヘスの呪縛からアルゼンチン文学を解き放ったとさえ讃えられる。そしてその延長線上にこのほど、ブエノスアイレスの出版社から書簡集二巻本が刊行されたのである。

『親愛なる家族へ』と題されたこの書簡集には、文字通り家族(父親、母親そして弟)に宛てた四百通を越える手紙が収録されている。先に出た第一巻では、一九五六年から一九六二年までの百七十二通が収められ、「ヨーロッパからの手紙」という副題がつけられている。映画監督をめざしてローマの映画実験センターへ旅立った二十代後半の若きプイグの日々がそこにある。そして第二巻の「アメリカ大陸からの手紙――ニューヨーク、リオ」では、晩年近くまでの、その後の二十年間の二百三十五通が収録されている。こちらの二十年のあいだに、プイグは映画から脚本へ、そして小説というジャンルに行き着き、会話やモノローグを主体にした独特な作風を見出すことになるである。

「アルゼンチン人の嫉妬深さのせいか、邪悪さのせいか知らないけれど、ぼくは完璧に無視され、だれも作品を取りあげてくれない」とプイグは一九六六年四月の手紙で家族に嘆く。ニューヨーク、メキシコ市、リオデジャネイロとずっと異国で暮らさなければならなかったのは、母国での迫害からのがれるためだったといわれている。だが、時代は移り変わり、事態は一変した。「若い世代となら理解しあえると思うんだ」とも書いたが、この予言は当たったようだ。
「北海道新聞」2007-2-6