2008年4月14日月曜日

楽園への道

■この小説はバルガス=リョサの比較的新しい作品である。七〇歳を越えた今もリョサは、二,三年おきに新作を発表しており、創作意欲には少しも翳りがみられない。『楽園への道』は二〇〇三年にスペインで刊行され、好評を博した。

主人公は十九世紀の前半に、フランスで労働者や女性たちの権利確立のために奮闘した社会運動家フローラ・トリスタンと、その孫にあたる後期印象派の画家ポール・ゴーギャンである。ふたりの生涯は、二十二章に渡って交互に語られ、五百ページ近い作品となっている。

ところでフローラもゴーギャンも、リョサの出身国ペルーと浅からぬ縁がある。フローラは三十代のはじめにこの国を訪れ、代表作『ペルー旅行記――ある女パリアの遍歴』(法政大学出版局)を書いた。一方ゴーギャンは、あまり知られていないことだが、幼年時代の数年間をこのアンデスの国で過ごしているのである。

ペルーから帰国して、やがて「人間に奉仕すること」をめざすようになるフローラだが、リョサはとりわけその生涯の最後の八ヶ月に焦点を当てる(一八四四年のことで、彼女は四十一歳になっている)。冒頭のエピソードでは、朝早く起き出して、セーヌ河畔の船着き場から、靴職人の小さな集会へ向かうフローラの姿が描きだされる。

十数時間かけてたどり着いたまちでは、組合を組織して団結するよう男たちに熱っぽく訴える。むろん女性がそうした主張を説いて回るのを奇異な目で見られていた時代だ。しかし彼女はひるむどころか、教会の司祭とも渡り合う。――「女たちがどんなに両親や夫や子供たちから虐げられ、不当に扱われ、搾取されているか、気づいていないのだろうか」

フローラ・トリスタンは、労働運動やフェミニズムの先駆者として近年再評価の著しい女性である。彼女をそうした社会運動へ駆り立てたものは何だったのか、不遇な少女時代や波乱に満ちた結婚生活とともに描きだされていくのである。

いっぽうゴーギャンについては、タヒチに渡ってから、ヒヴァ・オア島で亡くなるまでの十二年間の物語が主軸となる。ヨーロッパ文明を捨て、南太平洋の熱い島にたどり着くのは一八四一年、四十三歳のときだ。「百ヤードのキャンヴァス布」を携えていた。

タヒチまでやってこなければならなかった理由についてゴーギャンは言う。――「本物の絵を描くには文明化された我々を払い落として、内部にある野蛮人を引き出さねばならない」。それができた最初の傑作は「マナオ・トゥパパウ」(彼女は死者の霊について考えている、もしくは、死者の霊は彼女を思い出している)という作品だ。リョサは巧みなストーリーテリングでそのみごとな絵の達成を実感させてくれる。

『楽園への道』の最終章ではゴーギャンは、もはやほとんど目が見えない状態で、脚が腐乱し、自ら痛み止めのモルヒネを打っている。そして夢うつつのなかで日本に思いを馳せる。――「あの国へ楽園を探しに行くべきだったのだよ」

先にも書いたように、フローラとゴーギャンの物語は交互に語られる。ふたりは祖母と孫の間柄だが、ゴーギャンはフローラの死後に生まれた。当然のことながらふたりは物語のなかでも会うことがない。時代も舞台も登場人物も異なる別々の物語である。

とはいえ、両者のあいだを目に見えない電流のようなものがしきりに飛び交う。フローラもゴーギャンもそれぞれの領分で大胆な企てに挑み、ひたすら見果てぬ夢をめざした。その夢は楽園と言いかえてもよい。一途な情熱の、栄光とその代償の物語である。